「伊奈備前守忠次 友の会」入会のご案内

「伊奈備前守忠次 友の会」設立趣意

徳川家康の側近として、江戸初期、関東の土地・農業政策の基礎を築いた伊奈備前守忠次は、天文十九年(1550)三河(現在の愛知県西尾市)に伊奈忠基の十一子忠家の子として生まれ、幼名は熊蔵家次と名乗りました。 幼少のころより人並みはずれた秀才で、志も大きく天正十年(1582)に徳川家康に仕え、三河・遠江・駿河の三州の奉行職として活躍するとともに、豊臣秀吉による小田原攻めの際には、東海道中の道路整備や兵糧運送などを一手に担い、代官としての地位を固めました。
天正十八年(1590)徳川家康の関東入国後、その功が認められ、忠次は、武州小室、鴻巣領一万三千石を賜り、後に従五位下備前守(その後、大正天皇より正五位を贈られる。)に任ぜられ、代官頭(後の関東郡代)となりました。
伊奈町における忠次は、小室郷(伊奈町大字小室字丸ノ内)に陣屋を構えてここを拠点に関八州の天領(幕府直轄地)を治め、検地の実施、中山道その他の宿場の整備、加納備前堤、川島大囲堤を築堤するなど関東各地に渡って治水・土木・開墾等の事業を行いました。
また、諸国からの水運を計り、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民たちはもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などをすすめ、さらに桑、麻などの栽培方法を伝え広め、農民たちからも神仏のように敬われていました。
晩年には、灌漑用水と千波湖の氾濫対策を目的に備前堀の開削に着手し、この堀の完成によって水戸藩の経済発展に大きな役割を果たしました。
備前堀は、忠次の官位「備前守」に由来するもので現在の埼玉県などにもあり、忠次を筆頭とした伊奈家の政策は「伊奈流」「備前流」「関東流」と呼ばれ、江戸初期における土地政策の模範となりました。
最後に忠次は、単に代官や代官頭という立場だけでなく慶長十二年(1607)には江戸幕府の二代将軍秀忠政権の年寄衆に近い立場になり、幕府法令の策定、貨幣の流通・統制など幕府全体の政治にも関与し、慶長十五年(1610)六十一歳で生涯を閉じました。
私たちは、町名の由来にもなりました郷土の偉人伊奈備前守忠次の遺徳を偲び、町の誇りとしてその名を広く永く後世に伝えるとともに、またこのことが郷土文化の向上、地域振興に連なればと願い顕彰事業を展開してまいりたく発起した次第であります。
何卒この趣旨にご賛同いただき、多くの皆様がご入会賜りますようお願い申し上げます。

平成二十三年六月吉日「伊奈備前守忠次友の会」設立発起人

「伊奈備前守忠次 友の会」活動内容

「伊奈備前守忠次 友の会」入会申込

友の会に入会ご希望の方は下記入会申込書をダウンロードしご記入の上、事務局までお申し込みください。

「伊奈備前守忠次ものがたり」リーフレット(平成22年発行)

伊奈備前守忠次ものがたり
伊奈備前守忠次ものがたり

「伊奈氏の活躍について」動画